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皆さんは「黄金の国ジパング」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
イタリア人のマルコ・ポーロは中国の元(げん)で見聞きした東方の「黄金の宮殿」の噂を、母国に帰ってから1300年頃『東方見聞録』に著しました。
そして、それに触発されたコロンブスは黄金の国ジパングを目指し、1492年アメリカ大陸と遭遇します。
その後も極東の地にあるという黄金への憧れは、大きく歴史を動かし続けます。黄金の国の噂は時が経つにつれて「黄金島伝説」としてヨーロッパ人たちを誘い続けました。
江戸の初期、スペイン国王の命を受けたビスカイノは測量の名目で三陸沿岸を北上し、1611年11月30日大船渡港に停泊し「サン・アンドレス」と名付けました。しかし彼は、その時に見た今出山こそが黄金の国ジパングの一角だとは気づくこともなく、三陸沖で大津波の洗礼を受け、スペインへ戻ります。
この今出山では、「金鉱山整備令」が出される昭和18年まで日産35キロ(現在の貨幣価値で約1.6億円)もの金を算出していました。今も大船渡に残る「昭和15年7月1日現在」と記された仙台鉱山監督局管内鉱山分布図には、岩手県沿岸南部から宮城県北にかけて黄金色に塗られ、この地が戦前まで広大な産金地帯だった事の証左となっています。
この一大産金地帯の中に咲いた「一輪の黄金の花」こそ、金色堂に象徴される平泉文化でした。
『イラムトゥイパ』は、コロンブスが目指した「黄金の国ジパング」こそは、岩手県気仙地方を最大の産金地とする宮城県北から岩手県南の一大産金地帯と、平泉の金色堂こそが「黄金の国ジパング」の実体だったと言うことを証するために編集された本であり、その産金の歴史を地域づくりに生かそうという「大船渡まちづくり塾」が中心となって編集したものです。